朝日中高生新聞
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原爆の恐ろしさ リアルに

2018年8月5日付

投下前後の広島をバーチャルリアリティー

福山工業高(広島県福山市)計算技術研究部

 人々の息吹が感じられる街並みと猛火に包まれる爆心地――原爆投下前後の二つの広島をリアルに体感してもらおうと、福山工業高校(広島県福山市)の計算技術研究部がバーチャルリアリティー(VR)作りに取り組んでいます。6日、広島は被爆73年となる「原爆の日」を迎えます。(中田美和子)

証言者と現場へ、詳細に確認

 「郵便局のレンガはもう少し赤みがかった濃い色でした。ポストがあったのは反対側です」。6月中旬、広島市内の公民館。証言者の一人、もりとみしげさん(88)が原爆投下前のVRを見ながら細かく確認します。その横で2年生は修正点を書き留めます。「少しでも詳しく昔のようすを残せるようにしないと」
 「街の雰囲気はようおうてます。懐かしい」。森冨さんの父は爆心地から約50メートルの場所でふとん屋を営んでいました。母を病気で亡くしていたこともあり、町内の人は何かと面倒を見てくれました。爆心地となった島病院は小学生のころの遊び場でした。VRで中庭に入っていきます。「ここにサル小屋があってね、一度サルを逃がしてしもうて往生しました」
 3人の部員は森冨さんの案内で、現実の爆心地周辺を歩きました。たくさんの外国人観光客が取り囲む原爆ドーム。「正面玄関を入ったところに階段があって、その手すりをよくすべって下りて遊びました」
 原爆投下から数時間後、この付近まで来ました。その後も3日間通いました。「でも、熱くて近付けなかった。それが収まったら、においがひどくて」。父の店に行き着けたのは8月16日。焼け野原となった街に「ただぼう然とするだけ」。
 父と2人の弟、祖母、いとこを亡くしました。「みんながひょっと戻ってこんか、という気持ちも多少ありました。でも亡くなったもんは帰ってこんです。争いごとで家族を失うようなことは、もうないようにしてほしい」

一瞬で消えた にぎやかな街

 計算技術研究部は9年前からCG映像に取り組み、戦艦大和やまとや広島爆心地の作品を作りました。顧問のがわかつ先生は「歴史の検証が必要なものは、体験を話せる人が高齢化しているので急ぐ必要がありました」。
 爆心地の映像が完成すると、「この中を歩けたらいい。仮想体験ができればもっと伝わりやすくなる」と、2年前からVRの制作を始めました。VRは2種類。原爆投下前後の1時間を5分で体感するものと、投下前の街を歩いて回れるものです。今、作り込んでいるのは後者です。
 原爆投下前、米軍は広島の詳細な航空写真を撮っていました。まず、この写真から建物の配置や大きさを割り出しました。個々の建物はポストカードや証言をもとに作ります。話を聞いた人は100人以上になります。
 3年生は「昔の広島は思ったよりにぎやかできれいだった。それが一瞬で消えてしまう恐ろしさを伝えるには、忠実に再現しないと」。木造家屋の質感を出すために古い建物を見学。看板のロゴは昔の雑誌広告で調べました。石段につくコケや窓ガラスのゆがみも再現します。

完成目標は2年後

 現在の部員は26人ですが、100人以上が関わってきました。2年後を目標に、2本のVRに今の街並みを加え、完成させる予定です。「1週間も家に近付けなかった怖さ、悲しさ。VRを通じて森冨さんと同じ気持ちを感じてもらえれば」と、3年生は話します。

原爆投下前を表すVRの画像 原爆投下後を表すVRの画像
(左)原爆投下前の広島を表すVRの一場面。右から2軒目が森冨さんの父が営んでいた店です(右)原爆投下直後を表すVR。産業奨励館(原爆ドーム)が炎に包まれます福山工業高校計算技術研究部提供

爆心地周辺の地図
(C)朝日新聞社

細密に描いた「消えた町」

15歳の時、広島で被爆 森冨茂雄さん

「事実を知らせないと」

 もりとみしげさん(88)は自身も被爆しました。当時15歳。爆心から約2.5キロの場所で、工場の機械を移す作業中でした。
 8月6日午前8時15分。窓の外に稲光のようなせんこうが見えました。その瞬間、屋根も壁も吹き飛びました。機械とのすきで下敷きにはならずにすみましたが、頭を打ち、左腕に傷を負いました。腕の傷を自分の服で巻いて血を止めると、家を目指して歩き始めました。
 午前10時ごろ、爆心から約1.2キロのてん町まで来ると、真っ黒な雨が降り始めました。やけどで火ぶくれした人が逃げてきます。腕を前に突き出し、体の皮を引きずりながら歩く姿は「男か女かもわからなかった」。
 町の中心部に近付くにつれ、ようすはますますひどくなっていきました。髪の毛が抜けて全身やけどで「幽霊が出よる感じだった」と言います。それでも歩き続けたのは「ここから先に行けば焼けていないだろう」と思ったからでした。

記憶を頼りに

 60歳を過ぎた1990年ごろ、森冨さんは原爆ドームの見えるベンチに掛けて、よく昔のことを思い出していました。すると、平和記念公園に来ていた修学旅行生の会話が聞こえました。「ここは公園だったから原爆の被害が少なくてよかった」
 実際には一帯は広島有数の繁華街で、約4400人が暮らしていました。「たくさんの人が汗水たらして働き、肩寄せ合って生きていた。そして亡くなった。事実をはっきり知らせないと」。記憶を頼りに原爆前の街を描き始めました。
 「絵は得意ではない」と言います。学校の屋上から眺めた景色を思い出しながら、何度も直せるように鉛筆を使い、図面のようにみつに描きました。1枚に1カ月を費やしました。昔からの友人に見せると「懐かしいなあ」と喜んでくれました。当時はギフト商品を扱う店を開いていました。描いては店に飾っているうちに評判になりました。
 2011年にはヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が、森冨さんの絵43点と、それにまつわる思い出を『消えた町 記憶をたどり』にまとめました。この本はアニメ映画「この世界の片隅に」が参考にしたことで話題になり、今年5月、再版されました。
 「知ってることは全部伝えた。描いたもので何かを考えてもらえれば」

広島・長崎への原爆投下
 1945年8月6日午前8時15分、米軍が広島に原爆を投下。強烈な爆風と熱線で、爆心地周辺のほとんどの建物が破壊された。3日後の9日午前11時2分には、長崎に原爆が投下された。同年12月末までに広島では約14万人、長崎では7万人以上が亡くなったとされる。今も、原爆の熱線、爆風、放射線による「原爆症」に苦しむ人がいる。

森冨さんが描いた原爆投下前の広島の絵
森冨さんが描いた原爆投下前の広島。右下の中州が今の平和記念公園です=『消えた町 記憶をたどり』から。本はヒロシマ・フィールドワーク実行委員会(中川さん☎082・255・1923)が1600円+送料で販売

昭和17(1942)年当時の森冨さんの家族写真
昭和17(1942)年当時の森冨さんの家族。後列右から2番目が茂雄さん。前列中央が父と祖母、後列中央が2人の弟=森冨さん提供

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