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2016年5月1日付
公害による病気の代表といわれ、小学5年生などの社会科でも習う「水俣病」。熊本県で公式に確認されてから5月1日で60年になりますが、今も苦しんでいる人がたくさんいます。水俣市の地下には今も、原因となったメチル水銀が眠ったままです。(今井尚)
水俣病は、体に入ったメチル水銀により、神経がおかされる病気です。手足がしびれたり、見える範囲がせまくなったりします。
水俣市で暮らす緒方正実さん(58歳)は最近、左手の痛みに耐えられなくなってきました。毎日、24錠の薬を飲み続けています。
緒方さんは1957年、水俣市の北にある芦北町の漁師の家に生まれました。59年におじいさんが突然水俣病になり、亡くなりました。
そのころ、水俣市の「チッソ」という大きな会社の工場からメチル水銀が流れ、海や海の魚を汚しました。緒方さんの家では魚をたくさん食べていたため、メチル水銀の被害にあったのです。59年に生まれた妹は、生まれながらにして重い水俣病でした。
まわりから「緒方家は奇病一家」「近づくな」など、差別を受けました。水俣病と認めれば不幸になるんだ。そう思った緒方さんは小学生時代、「魚は1匹も食べとらんけん、水俣病じゃなか」とうそをついて過ごしました。「今から思えば、自分を守るためだったんです」
大人になり、結婚して、子どもができました。子どもにはいつも「正直でいなさい」と言っているのに、自分が水俣病であることに背を向けて生きることはおかしいと思うようになりました。38歳のとき、水俣病患者として認めてほしいと国に申し出て、10年がかりで2007年に認められました。
緒方さんは水俣市立水俣病資料館で語り部として、訪れる小学生らに自分の経験を語っています。子どもたちから「正直でいることの大切さを知りました」などと手紙をもらうとき、緒方さんは少しだけ水俣病の苦しみから解放されるといいます。
しかし、語り部の数は減っています。亡くなる人がいるうえ、差別を恐れて新たに語り部になろうとする人が少ないからです。
緒方さんは最近こう考えます。「水俣病の被害者は患者だけではない。患者の家族、行政、原因企業のチッソの人、漁師や農家など、さまざまな立場の人が苦しみました。それぞれに言い分があるでしょう。だれもが立場をこえて、正直に話し合える場があればいい」
水俣病患者の語り部、緒方正実さん=熊本県水俣市の水俣病資料館
工場から流れ出たメチル水銀は、水俣湾の海にヘドロとしてたまりました。1977年から90年にかけて、汚染がひどいどろを一か所に集めて埋め立てました。いまは「エコパーク水俣」という公園になっています。
熊本県は、埋め立てた場所は2050年までは大丈夫としています。
しかし、熊本学園大学教授の中地重晴さん(環境化学)は「水銀は何年たっても分解されない」と話します。「いつかはどうにかしなければなりません。今は水銀を濃縮して回収する技術もあります。子どもたちの世代に課題を残していいのでしょうか」
4月14日から続く熊本地震で、水俣市では16日に震度5弱を観測しましたが、水俣市によると「エコパーク水俣で液状化や岸壁の被害はなかった」といいます。
中地重晴さん
1956年5月1日は水俣市の保健所に「原因不明の病気」が報告された日です。ただ、水俣病らしき症状はその数年前から知られていました。チッソは68年になって水銀の排出をやめ、国も公害病と認めました。行政が患者と認めたのは2280人(3月末現在)。症状があり、チッソや国などが医療費などを出す人も約7万人います。
水俣湾。手前がヘドロを埋め立てたエコパーク水俣=朝日新聞社ヘリから
(C)朝日新聞社
「二度とこの悲劇は繰り返しません」などと記された慰霊の碑=水俣市
いまの水俣湾。魚釣りをする子どもの姿も見られます=4月、水俣市
(C)朝日新聞社
記事の一部は朝日新聞社の提供です。