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2017年11月6日付
明日7日は「キュリー夫人」(マリー・キュリー)が生まれて、ちょうど150年。知っているようで知らない業績や生涯について、あらためてふり返ってみましょう。クイズにもチャレンジ!(編集委員・沢辺雅俊)
有名なのがノーベル賞の受賞です。「女性として初めて。2度受賞したのも初めて。時代を代表する科学者です」。こう話すのは、東京理科大学理数教育研究センター客員研究員の吉祥瑞枝さんです。学習まんが『マリー・キュリー』(集英社)の監修もしています。ノーベル賞の117年間の歴史で、科学系(物理学、化学、医学生理学)の女性の受賞者は17人にすぎません。
生まれたのは、今のポーランドのワルシャワ(当時はロシアの支配下)。父親は中学で物理を教え、母親は女子の寄宿学校を経営していました。5人きょうだいの末っ子で、読書好きでした。
当時のポーランドには女子の入れる大学がありません。そこで家庭教師をして、フランス留学をめざします。先にパリに移り住んでいた姉をたよってソルボンヌ大学に留学したのは、23歳の時でした。
大学では物理や数学を猛勉強。科学者ピエール・キュリーと27歳で結婚します=クイズ①。
研究対象に選んだのは鉱物のウランがふしぎな光を発する現象です。ウランの鉱石ピッチブレンドから、新しい放射性元素ポロニウムとラジウムを発見しました=クイズ②。8トンのピッチブレンドから取り出せたラジウムはわずか0.1グラム。4年がかりの根気のいる研究でした。
これらの成果から1903年、科学者アンリ・ベクレルや夫とともに「放射能の研究」でノーベル物理学賞を受賞。11年には「ラジウムとポロニウムの発見」で、単独で化学賞を受賞しました。
その間、夫が馬車にひかれて亡くなる不幸も。第1次世界大戦中はエックス線撮影機を積んだ車に乗って戦場をまわり、撃たれた兵士の治療に貢献しました。これらの被曝がもとで34年に66歳で亡くなるまでの間、精力的に研究を続けました。
マリーらが切り開いた放射性物質の研究は、治療やさまざまな科学技術に応用されています。一方で今日では、核兵器や原子力発電所の事故など、あつかい方によっては負の面も招いています。
マリー自身は子どもと平和を愛し、忍耐強い性格だったといわれます。特に「子どもへの科学教育がすばらしい」と吉祥さん。娘をふくむ子どもたちに、空気の重さを量るなどの理科実験教室を開きました。長女はその後、母と同じ研究の道へ進みました=クイズ③。
吉祥さんは「科学への貢献や理科教育など、マリーから多くのことを学べる」と話しています。
記事の一部は朝日新聞社の提供です。