アンパンマンの勇気
まんが家で作詞家のやなせたかしさんが13日、心不全のため亡くなりました。94歳でした。代表作の「アンパンマン」をはじめ、まんがや絵本で多くの人に勇気をとどけました。2010年から朝日小学生新聞で「やなせたかしのメルヘン絵本」を連載中でした。
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たくさんのキャラクターに囲まれるやなせさん
=2012年9月、東京都新宿区のやなせスタジオで(渡辺英明撮影)
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希望と「本当の正義」
「とてもやさしい顔をして旅立ちました」。15日に東京都内で行われた葬儀に出席したフレーベル館・アンパンマン室室長の天野誠さんは、こう話します。ひつぎの中は「ぼくの子どもたち」とかわいがっていたアンパンマンのキャラクターのぬいぐるみでいっぱいだったそうです。
やなせさんは高知県出身。イラストレーターになろうと、東京高等工芸学校図案科(今の千葉大学工学部デザイン学科)に進学。卒業後は製薬会社で宣伝を手がけましたが、戦争が始まり、21歳から26歳まで戦地で過ごしました。
終戦後は新聞社や百貨店で働き、1953年に34歳でまんが家として独立。しかし生活が苦しく、舞台やドラマのお話をつくる仕事もしました。このとき作詞したのが大ヒット曲「手のひらを太陽に」です。
代表作の「アンパンマン」は73年、54歳のときに生まれました。絵本は約350タイトル、シリーズを通じて6800万部を売り上げています。
パンであるヒーローが、自分の顔をちぎって食べさせることで傷つきもする物語です。「正義は自分を犠牲にしなくてはできない」「本当の正義のためにはまず、飢えた人をなくすことが何より肝心」という、やなせさんのメッセージがこめられています。
「善い人でいなさい」最後の言葉
2010年4月から朝小で連載中の「メルヘン絵本」を担当する平松利津子が、やなせさんの思い出をふり返ります。
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被災した子どもたちのためにかいた色紙=11年3月
©やなせたかし
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この絵本つくるため
「善い人でいなさい。人が喜ぶことをしなさい」。これが、やなせさんから担当だった私への最後の言葉になりました。15日の午後、突然届いた悲しい知らせに、私は立ちつくしました。
「メルヘン絵本」は「1週おきで50話作ろう」とスタート。すぐに「楽しくなってきたから毎週かく。最後の日までかくよ」と連絡が入り、半年後から毎週の連載になりました。読者の感想を楽しみにしていて、「朝小の子どもたちの感性はすごいね」と目を細めていたことを思い出します。
11年8月に本になったとき、「ぼくはアンパンマンの絵本と、この絵本をつくるために生まれてきた気がする」という言葉を贈ってくれました。優しさやユーモアがちりばめられたこの連載が、約束通り最後のお仕事になりました。体調が悪くても仕事への熱意はおとろえず、原稿は12月2日の分まで届いています。
サンリオの月刊誌『詩とメルヘン』の編集長時代、私は同じ編集部にいて、仕事ぶりを近くで見聞きしていました。美しい絵や言葉で、どこかの、だれかの心をなぐさめ、勇気を与える――これが本作りの基本でした。朝小で連載が始まった「立原えりかのグリム童話」では、葉祥明さんら、やなせさんが育てた人たちの多くが絵を手がけます。
被災地のために、再び絵筆にぎった
「一本松」に支援の手
東日本大震災が起きたのは92歳のとき。視力が低下し、仕事を減らすことにしていましたが、「こわい思いをしている子どもたちのために」と、再び絵筆をにぎりました。震災直後から、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」にも支援の手をさしのべました。
病気の身でも、みんなを笑顔にするために生きたやなせさんは、アンパンマンそのものでした。やなせさん、たくさんの愛をありがとうございました。
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