薬で完治 でも日本では隔離し続けた
ハンセン病の元患者で、病気に対する差別や偏見とたたかう運動を進めてきた神美知宏さんと谺雄二さんが今月、相次いで亡くなりました。ハンセン病とはどんな病気で、どんな問題があったのでしょうか。元患者の方々は、これまでどんな取り組みをしてきたのでしょうか。
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ハンセン病訴訟で「勝訴」の知らせが届き喜ぶ原告や支援者ら=2001年、熊本市©朝日新聞社
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ハンセン病の元患者で、差別や偏見とたたかった谺雄二さん(上、200 8年撮影)と神美知宏さん( 01 年撮影)。今月、亡くなりました©朝日新聞社
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顔や手足変形 不治と誤解
Q ハンセン病ってどんな病気なの。
A らい菌という細菌が感染することによる病気だよ。かつては病気がひどくなると皮膚にこぶができたり、毛が抜けたりして顔つきが変わった人もいる。神経がまひして、やけどや傷が悪化したため、手足の指が短くなった人もいた。病気で外見が変わることや「不治の病」との誤解から、社会から嫌われて故郷を追い出され、放浪の暮らしを送った人もいた。
Q 治らない病気なの?
A いや、薬で治る病気だよ。伝染力が弱く、患者と一緒にいてもうつる可能性は低い。しかも1940年代に米国で特効薬「プロミン」が開発され、第2次大戦後に次々と薬ができて完全に治る病気になった。
Q じゃあ治った人は故郷へ帰れたんだ。
A 残念ながら、日本では帰れない人が多かった。
Q えっ、どうして?
A 政府がハンセン病患者を隔離する法律を1907年に作り、戦後も「らい予防法」として引き継がれた。明治時代、故郷を追われたハンセン病患者が神社やお寺、路上で物乞いをする姿を「文明国の恥」と考えた政府は、全国に療養所を作り、警察を使って街頭の患者を収容した。
軍国主義が強まると国民は健康な兵士となって国に尽くすよう求められ、病気の人はいっそう肩身が狭くなった。「無らい県運動」といって、ハンセン病患者を全員隔離し、自分たちの県に一人も患者がいないようにする運動も進められた。
Q 戦後は治る病気になったんだから、帰れたんでしょう?
A ところがそうならなかった。ハンセン病が治る病気となり、60年代までに隔離をやめる国が相次いだのに、日本だけはやめなかった。戦前から療養所で隔離を進めていた専門医たちが、隔離が不要だとは認めず、逆に続けるよう国会で訴えた影響が大きかった。「隔離は必要なかった」と医師らが見解をまとめ、らい予防法が廃止されたのは96年になってからだった。
Q そうだったのか……。患者だった人たちはどうしたの。
A 予防法廃止2年後の98年、元患者たちが「誤った隔離政策で人権を侵された」として国を相手に損害賠償を求める裁判を起こした。2001年の熊本地裁判決は、原告の元患者たちの訴えを全面的に認めた。小泉純一郎首相(当時)は「元患者らは高齢で、早期解決が必要」として控訴の断念を発表。裁判が確定した。
「人間回復」裁判勝っても…
Q 最近亡くなった人たちも裁判に参加していたの。
A 5月11日に82歳で亡くなった谺雄二さんは、裁判の原告の代表の一人だった。7歳でハンセン病を発症して療養所に入所したそうだ。
9日に80歳で亡くなった神美知宏さんは17歳で入所。療養所で暮らす元患者らの団体「全国ハンセン病療養所入所者協議会」の会長。裁判も支えた。
2人とも、隔離政策で人権を否定されたハンセン病患者や元患者の「人間回復」を訴え、長く運動を続けてきた人たちだ。
Q 今はどんな問題が残っているの。
A 療養所にいる入所者は病気は治ったが高齢化が進み、介護なしでは暮らせない人がほとんどだ。また亡くなるなどして急速に入所者の数が減っている。世話をする職員が減らされると、看護や介護がおろそかになるとして、職員を減らさないよう厚生労働省に求める取り組みを、神さんは続けていた。
病気に対する偏見や差別はかなり解消されたとはいえ、家族の理解が得られず故郷に帰れないまま亡くなる人も、まだいる。ハンセン病問題は終わっていないんだ。
朝日新聞編集委員 北野隆一
1967年生まれ。90年から朝日新聞記者。新潟県、宮崎県、福岡県、東京都、熊本県で勤務。北朝鮮拉致問題やハンセン病、水俣病などを取材し、11年秋からは皇室を担当した。
2014年5月25日 |