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2016年4月24日付
熊本県を中心に大きな地震が続いています。16日未明の地震の規模はマグニチュード(M)7.3で、1995年の阪神大震災級。一連の地震で48人が亡くなり、約9万人が避難しています(21日現在)。避難所で過ごす人の中には、ボランティア活動を始める中高生も見られます。(今井尚)
14日と16日の2度も震度7の揺れがおそった熊本県益城町を訪ねました。中心部を歩くと、瓦屋根は落ち、石垣が崩れ、道路もいたるところにひび割れが見られました。道路側に倒れかかっている家や、今にも落ちてきそうなものもあります。
役場などでは食料の配布が行われていました。お店はほとんどが休業。21日現在、営業しているコンビニもありますが、品物は不足しています。
土砂災害に見舞われた南阿蘇村では20日、村の職員らが支援物資の仕分けや避難者への引き渡しに追われていました。土砂崩れで建物がのみ込まれ、阿蘇大橋が崩落するなどの被害があった村で、全国から支援物資が届いています。
熊本市内でも多くの人が避難生活を続けています。中央区の市立帯山西小では、卒業生の中高生が小学生と一緒に食料や支援物資を配布したり、教室の掃除をしたりと率先して活動しています。
中野優音さん(市立帯山中3年)もその一人です。最初の地震の日から帯山西小で過ごしています。「当初は校庭にブルーシートを敷いて過ごし、17日から教室に入りました。ここにいれば同級生もいるし、みんなで集まれるので安心です」
小学生がボランティア活動をしているのを見て、食料配布の手伝いを始めました。みんなの役に立てるのがうれしいと言います。
震度7の揺れに2回おそわれた熊本県益城町=19日
内田有紀さん(県立熊本高校1年)も、初日は帯山西小の校庭で野宿したといいます。
「初めての経験だったけど、周りにみんながいたので、家よりは安心できました。自宅はマンションの8階。あらゆるものが散乱し、食器はほとんど壊れました。とても住める状態ではなく、その後も片付けをしながら、車の中や親せきの家に泊まりました。昼はいいけど、夜は怖い」
小4のときに東日本大震災が起きて、被災地の宮城県気仙沼市立階上小と交流を続けてきました。黒木陽菜子さん(熊本市立必由館高校1年)は「被災地との交流で、届いた水仙を『希望の花』として学校に植えたのが忘れられません」と振り返ります。
20日午前、帯山西小の駐車場には40台ほどの車が止まっていて、中で休んでいる人もいました。
家が壊れていなくても、室内が散乱している、帰るのが不安、水が出ないので帰っても暮らせないなどの理由で避難所に集まる人も多くいます。
地震の直後は多くの人が押し寄せ、物資が不足したといいます。校長先生が保護者らに支援を呼びかけたところ、続々と物資が集まり、20日の午前、校内には紙おむつや歯磨きなどの衛生用品、食料などが積まれていました。
自衛隊の支援も始まったほか、トマトやバナナといった新鮮な野菜なども配布できるようになりました。
熊本市中央区の読者、尾上結美さん(中1)から声が届きました。
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最初の地震の時は塾にいて、とても心細い思いをしました。2度の地震で7階の自宅の部屋はぐちゃぐちゃになり、ゆれて怖いので、夜は3日ほど車の中で泊まりました。今は東区の祖母の家に避難しています。だいぶ落ち着いてきましたが、まだ余震が続いています。
母の職場が益城にあるので、お手伝いに行きました。崩れ落ちた家を何軒も見て、胸がつぶれるような思いでした。母の職場では、職員さんに水を配る仕事をしました。そこには「地震に負けない」と張り紙がありました。心を打たれました。
気象庁は一連の地震を「平成28年(2016年)熊本地震」と名付けた。
熊本県などによると、死者は計48人、けが人は1千人以上、熊本県内で全壊・半壊した建物は2800棟以上。県は、災害のショックや避難生活の疲労などによる「災害関連死」を10人と発表した。
避難者数は約9万人(21日現在)。
車の中で過ごす人も多く、血液中に血の塊ができて呼吸困難などを引き起こす肺塞栓症(エコノミークラス症候群)で亡くなる人も出ている。
熊本市では5月9日まで、市立の全校が休校になった。
熊本県内では電力はほぼ復旧したが、ガスは約10万戸で止まったまま。水道も一部で断水が続く。
熊本空港は19日に一部の便の運航を再開。全区間で運転を見合わせていた九州新幹線は20日、新水俣―鹿児島中央間の運転を再開した。
届いた支援物資を仕分けする様子=20日、熊本市中央区の帯山西小学校
避難所で過ごす人たち=20日午後、熊本県西原村立西原中学校
記事の一部は朝日新聞社の提供です。