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2018年10月7日付
今年のノーベル医学生理学賞に、京都大学特別教授の本庶佑さん(76)と、米テキサス大学MDアンダーソンがんセンター教授のジェームズ・アリソンさん(70)が選ばれました。2人の研究成果は「免疫ではがんを治療できない」という常識をくつがえしました。新しい治療薬の開発につながり、世界中で注目されています。(寺村貴彰、中田美和子、畑山敦子)
本庶さんが研究したのは、細菌やウイルス、がん細胞などの異物から体を守ろうとする免疫の仕組みです。新しいタイプのがん治療薬「オプジーボ」の開発に結びつきました。
受賞が発表された1日夜の会見で、本庶さんは「研究の成果が治療や診断につながらないか、常に考えています。『あなたのおかげで病気がよくなった』といわれると、自分の研究に意味があったと感じられて何よりもうれしい」と話しました。
免疫の力でがんを治せないかと長年、多くの研究者が取り組んできましたが、免疫治療法はあまり効きませんでした。その原因を明らかにしたのが本庶さんです。
日本科学未来館(東京都江東区)によると、免疫で働く様々な細胞の中に、異物を攻撃する部隊「キラーT細胞」があります。これに「PD―1」というブレーキボタンがついていることを1998年に発見しました。
キラーT細胞が異物を攻撃する際、誤って私たち自身の細胞を攻撃することがあります。異物と間違われないよう、自身の体の細胞は「PD―L1」という腕でボタンを押すのです。しかし、がん細胞は異物であるにもかかわらず、ボタンを押す腕を持っています。これが、免疫治療法があまり効かない原因でした。
そこで、キラーT細胞のボタンを覆う薬、オプジーボが開発されました=イラスト参照。
共同受賞するアリソンさんはPD―1とは別の分子が、同様に免疫のブレーキ役を果たしていることをつきとめました。
日本のノーベル賞受賞は26人目。授賞式は12月10日、スウェーデンのストックホルムであります。賞金の900万クローナ(約1億1500万円)は受賞者で分けます。
「受賞で、基礎研究にはずみがつけば望外の喜び」と会見で語った本庶さん。ノーベル賞の賞金などをもとに、若手の研究者を支援する基金を設立する考えです。近年、新しい原理などを発見するための基礎研究の予算が減っていることが背景にあります。
98年から約6年間、本庶さんのもとで研究した日本医科大学大学院教授の岩井佳子さんも「苦しさを経験した」といいます。当初、学会などで発表しても関心を持たれず、2014年に治療薬オプジーボとして発売されるまで研究を続ける困難もあったといいます。
「日本では一部の研究に研究費が集中し、まだ芽が出ていない研究への応援が少ないと思う。本庶先生の思いには全く同感で、より多くの人に挑戦する機会をつくれるようになってほしい」と話します。
本庶さんは会見で、若い世代に向けて「不思議だ、知りたいと思う心を大切にして」とエールを送りました。
1948年、米国生まれ。73年、テキサス大学オースティン校で博士号取得。テキサス大学MDアンダーソンがんセンター教授。
イラスト・池田圭吾
ノーベル医学生理学賞に決まった本庶佑さんから若い世代へ
――科学を志す人に大切にしてほしいことは。
教科書に書いてあることを信じない。常に疑うこと。本当はどうなっているんだと考え、自分の目でものを見て納得するまであきらめない。そういう人に研究の道を目指してほしい。
――教科書を信じないとは。 教科書に載っているのは「今の時点で」みんながある程度、合意している事実。でも「絶対真理」ではない。状況によって変わっていくものです。教科書が全部正しかったら学問はいらない。これを書き換えることが君たちの手にかかっていると、学生にも話しています。
――科学への興味が芽生えた最初の体験は。
小学校高学年のとき、学校の小さな天体望遠鏡で土星の輪が見えたんです。すごいと思った。あんな宇宙の果てに世界があることが不思議で、そこまで行って自分の目で確かめたい、天文学者になりたいと考えました。
――若い世代にぜひ伝えたいことは。
死の問題をもっと考えてほしい。死の意味がわからないから自殺してしまうのです。生命科学では、生きることと同じくらい死が大切。どう生きるかだけでなく、どう死んでいくのが幸福かを考えることが大事です。(中田美和子)
本庶さんが山口県宇部市で過ごした小中高時代の後輩で、共に研究者になった後も交流が続く東大名誉教授の浅野茂隆さん(75)は、1日夜の記者会見で見せた「すべての重荷が下りた」笑顔が印象に残ったと話します。
「子どものころは勉強もスポーツも万能な『神童』。生徒会長も務めるリーダーで、何事も論理的に考え、人あたりも良い」。どっしり構えて話す姿勢も、中学時代から変わらないといいます。
1970年代の終わりに研究のため渡ったオーストラリアで、本庶さんの名がとどろいていて「誇りに思いました」。
京大大学院で本庶さんの研究室に所属していた岩井佳子さん(日本医科大大学院教授)は、データが正確か、信頼できるかということに本庶さんは厳しかったそうですが、「一人前の研究者になるための愛情だったと思う」と振り返ります。
「ダイヤモンドを探すのではなく、人がその価値に気づいていないときに原石を発見するのが研究」と話していたといい、「人と違うことを恐れず、独自の発想で研究する大切さを学びました」。
当時、研究室には40~50人の研究者がいました。多忙な本庶さんと話す機会が少なかったため、教授室の入り口の箱に投書し、手紙でやりとりしていたそうです。「研究でいい結果が出て、ふだんはほめない先生から『おめでとう』と一言、返事が来た時は本当にうれしかった」(松村大行、畑山敦子)
1942年、京都市生まれ。66年に京都大学医学部を卒業。東京大学医学部助手、大阪大学医学部教授、京都大学医学部教授、静岡県公立大学法人理事長などを経て、2017年から京都大学高等研究院特別教授。
ノーベル医学生理学賞の受賞が決まり、喜びを語る本庶佑さん=1日、京都市、中田美和子撮影
記事の一部は朝日新聞社の提供です。