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2017年12月3日付
2011年3月11日の東日本大震災の教訓を未来へ生かそうと、国内外の専門家が防災を考える国際会議「世界防災フォーラム」が先月、仙台市で初めて開かれました。被災地の東北3県の高校生らも復興に向けた活動を発表。朝中高特派員の中1と高2が取材しました。(猪野元健、今野公美子)
フォーラムに集まったのは、約40カ国の政府や大学の防災の専門家ら約900人。最新の防災の取り組みなどを発表しました。最大震度7を記録し、2万2千人以上の死者・行方不明者が出た東日本大震災の被災地から、「BOSAI」を世界の共通語として広めていくねらいもあります。
岩手、宮城、福島3県で防災活動などに取り組む高校生や大学生は先月25日、東北大学(仙台市)のホールで「災害に学び、未来へつなぐ」をテーマに講演しました。
宮城県からは、女川町立女川第一中学校(現・女川中)を卒業した大学生らでつくる「女川1000年後のいのちを守る会」が発表しました。
女川町では津波で住民約1万人のうち約800人が死亡・行方不明に。震災から1カ月後、女川第一中の新1年生が社会科の授業で「故郷のために何かできるか」を話し合いました。これが「いのちを守る会」の活動を始めたきっかけです。
授業では「被害を最小限にするには大地震がきたらとにかく逃げることが大切」という意見が出た一方で、逃げようとしない人に避難を呼びかけ続けた人が亡くなったという意見も出ました。生徒は住民同士が深い絆を結び、震災を記録に残すことで、もっと多くの命が救えると考えました。
「1000年後の命を守ること」を合言葉に始めたのが、町内に21ある浜の津波の到達点に、津波から逃れる目印となる石碑を建てることです。毎年3月11日に全員で避難訓練をして、震災について子や孫に語り継いでいきます。支援金を募り、今年8月までに16の石碑を建てました。こうした取り組みをもとにした子ども向け教材「女川いのちの教科書」の編集などもしています。
渡邊滉大さんと鈴木元哉さん(ともに大学1年)に、特派員が「被災していない中高生にできることは何でしょうか」と質問しました。
2人は「身近にある防災の活動に一度試しに参加して、興味を持ってもらえるとうれしい。自分たちも中学生の時は防災に深く興味があるわけではなかった。でも活動してみて、人の役に立っていると感じたり、仲間と考えることが楽しくなったりして、長く続けられた」と話しました。
福島県からは、県立福島高校(福島市)スーパーサイエンス部の放射線班が参加。福島では東京電力福島第一原子力発電所で事故が発生し、大量の放射性物質が拡散されました。その2カ月後、部員が学校の放射線量を調べて線量マップを作ったことから、放射線班ができました。
放射線班は、福島の風評被害で問題になっている放射線について、科学的に調べることに力を入れました。成果の一つが、県内外の高校生が被曝した放射線量の調査です。
福島県内と県外の各6校、フランスなど海外の14校の高校生ら計216人に個人線量計を2週間持ち歩いてもらった結果、被曝した放射線量に大差はないとわかりました。
2015年からはフランスの学生向けに福島を学ぶワークショップを開いています。今年は8月に浪江町の汚染土などの仮置き場を見学し、県内の観光地や農家の現状を一緒に取材しました。
見城花菜子さん(1年)は壇上で「県外や海外の福島に対するイメージは、事故直後のままで『福島=原発事故汚染地域』である」と指摘し、こう続けました。「風評や避難をめぐる社会的な問題の背後には放射線量や福島の現状への誤解がある。これからも福島の放射線量について、わかりやすく伝えていきたい」
発表を聞いて、特派員は「フランスの人に放射線のことを伝える上で、苦労することはありますか」と質問。菅野翼さん(2年)は「放射線の勉強はしてきていますが、福島の避難や帰還など、込み入った情報を海外の人にどう伝えていくかは課題だと感じています」と答えました。
岩手県からは、町の復興の様子を記録し続ける県立大槌高校(大槌町)の3年生が発表しました。大槌町は津波で住民の約1割が犠牲になり、建物の約7割が被害を受けた町です。
復興にかかわりたいと、全校生徒210人中141人が、復興を考える「大槌復興研究会」に参加。その中の「定点観測班」は年に3回、町内180地点の同じ場所で撮影を続け、文化祭やウェブサイトで発信しています。
黒澤亜美さんは「津波の被害で更地になった町の復興には長い時間がかかります。去年くらいから、町の盛り土(津波の被害を防ぐため土を盛って地面を高くすること)ができてきました。約2メートルの盛り土に初めて立った時『ここからやっと復興が始まる』とワクワクしました」と話します。
これまでに撮りためた写真は約2500枚。写真から町の整備が進む様子がわかりますが、生徒の2割が仮設住宅で暮らすなど、復興はまだ道半ばです。
倉澤杏奈さんは「町を一度離れる道も考えましたが、復興研究会で活動するうち、支えてくれた人に恩返しをしたいと思い、地元の会社に就職することを決めました。次は会社の一員として復興を支え、防災の活動もしていきたい」と話しています。
■取材を終えて
被災しなかった人々に当時の悲しみ、希望を失った状況を伝えるのは難しいことです。だからこそ、復興に向けて一生懸命活動し、心をつないでいくことが大切だと思いました。私もその心をつなぎ、伝えていきたい(中1)。
宮城県女川町のメンバーに活動を支える思いを聞くと「楽しいから」と返ってきました。震災の記憶の継承は「するべき」ことですが、「やりたい」と取り組むことで、より多くの人に伝わると思いました。単なる継承だけでなく、人の気持ちに訴えかける、社会的な仕掛け作りも必要と感じました(高2)。
記事の一部は朝日新聞社の提供です。