大久保真紀記者(朝日新聞編集委員)
パパが「もうすぐ、中国でくらしていた人たちが、親やきょうだいをさがしに日本へ帰ってくる」といっていたよ。
中国残留孤児のことね。正式には「中国残留日本人孤児」というの。戦争によって家族とはなればなれになった人たちなのよ。24日に新たに残留孤児とみとめられた人たちが来るわ。
それなら新聞やテレビのニュースで聞いたことがある。くわしく教えて。
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中国残留孤児の肉親さがしは毎年つづいています。出むかえに笑顔でこたえる残留孤児たち=おととし成田空港で |
戦争で親と生き別れになった日本人の子
ケン その中国残留孤児って?
――残留孤児は、みんなのような子どものときに親とはなればなれになって、中国にのこされた日本人なの。
ポン どうして、そうなったの?
――1932年に日本が中国東北部に「満州国」という国をつくったことは知っている? 「ラストエンペラー」という映画にも出てくるわ。その満州国に、日本の政府は、たくさんの開拓団員らを送りこんだの。
ポン 開拓団?
――かんたんにいえば、荒れ地を耕し、中国で農業をしようとした人たちね。多くは農村の次男、三男で、家族でわたったの。でも、本当は中国人の土地を日本の軍隊などが力ずくでうばって、そこに開拓団を入れたの。
ケン それで?
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現在の地図の上に旧満州国の位置をしめしました |
――当時、日本はアメリカと戦争をしてたんだけど、日本が負ける直前の45年8月9日に、ソ連軍も日本と戦争を始めて、満州国にせめてきたの。開拓団の人たちはあわててにげたけど、子どもや老人や女性が多くて、ソ連軍に攻撃されたり、日本人にうらみをいだいた中国人におそわれたりして、当時、満州にいた約155万人の日本人のうち20万人以上、つまり8人にひとりが死んだわ。
ジャン すごい数ね。
――にげるとちゅうで食べものがなくなって死んだ人もいるし、冬になって寒さや病気で死んだ人もいた。それで、せめて自分の子どもは助けたいと中国人にあずけた人たちがいたの。そのあずけられた子どもが残留孤児なの。ポンくんのような年の子もいっぱいいたのよ。
ジャン その子たちはどうなったの?
――大切に育てられた人もいたし、働かされた人もいた。でも、ほとんどが日本語や自分の名前さえわすれちゃって、中国人として中国でくらしてきたの。いまでは一番若い人でも59歳で、71歳の人もいる。
ケン 日本への帰国は進んでいるの?
――72年に日本と中国の国交(国どうしの正式なつきあい)が回復したけど、日本の政府は肉親さがしや帰国の援助をなかなか進めてくれなかったの。帰国が本格化するのは80年代の半ば以降になってからよ。いまは日本政府のお金で日本に永住帰国することができるようになっている。それで日本語はできないけれど、祖国でくらしたい、とこれまでに約2500人が帰ってきたの。
ポン 帰ってきたら安心だね。
――そうともいえないの。なかなか日本語をおぼえられず、働くところも見つからない。みんな高齢でほとんどの人は生活が苦しい。いま、6割以上の人が安心してくらせるよう、国に賠償をもとめて各地の裁判所にうったえているのよ。いっしょに帰ってきた子どもも、「中国人」などといわれいじめられるケースもあるの。
ジャン 残留孤児は何人ぐらいいるの?
――2783人が残留孤児とみとめられたわ。でも、そのうち自分の名前がわかった人は1275人よ。
ジャン のこりの人は自分の名前もお母さんやお父さんのこともわからないままなの?
――ざんねんながら、そうよ。長い年月がたってしまって、なかなか肉親が見つからないの。
24日には10人が日本に来るわ。みんな肉親をさがしている。ひとりでも多くの人が肉親を見つけられるといいわね。
ジャン 本当にそう思うわ。戦争って、ずっとずっと後まで人々を苦しめることになるのね。
(04年2月21日)
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