|
大塚 誠記者(朝日新聞外報部)
アラファトという人が亡くなったって、ニュースで大きく取り上げられていたわ。
パレスチナ自治政府のアラファト議長のことだね。11日に入院先のフランス・パリの病院で亡くなったんだ。議長の死が中東情勢に大きな影響をあたえるのではないかといわれているね。
アラファト議長ってどんな人なの?
内部対立で中東和平が遠のく恐れも
――パレスチナ問題に40年近くかかわってきた人だよ。アラブ諸国と仲の悪いイスラエルへの抵抗を象徴する存在だったんだ。
ケン パレスチナ問題って何?
――とてもむずかしい、歴史的な問題なんだ。パレスチナ人とは「パレスチナ地方出身のアラブ人」のこと。多くはスンニ派のイスラム教徒だよ。
ジャン その人たちとイスラエルとの間の問題なのね。
 |
| アラファト議長が埋葬されたヨルダン川西岸の自治区ラマラの廟(びょう)で、いのりをささげる人たち |
――そう。19世紀の初めのことだけど、ユダヤ人が祖先の土地とするパレスチナに、ユダヤ人の国をつくろうとする運動が高まりを見せていた。その結果、ユダヤ人が世界各地からパレスチナの地に大勢やってくるようになったんだ。
ポン ふーん。
――その後、その土地を支配していたイギリスが、フサイン・マクマホン協定(1915年)でアラブ人に、バルフォア宣言(17年)でユダヤ人に、それぞれパレスチナに国をつくることを約束してしまった。この矛盾した政策で、パレスチナとイスラエルの対立が始まったんだ。
ケン イスラエルという国は知っているよ。
――ユダヤ人は48年、パレスチナにイスラエルを建国した。ところがすぐに、これをみとめないアラブ諸国と戦争になった。中東戦争といって第1次から第4次までくり返してきたんだ。
ジャン 4回も!
――イスラエルの建国で、パレスチナに住んでいた多くのアラブ人は土地を追われた。アラファト議長は69年にパレスチナ解放機構(PLO)という組織の議長になって、パレスチナ人の国をつくろうという運動のリーダーになったんだ。94年にはノーベル平和賞をもらっているよ。93年に、イスラエルとPLOが中東に平和を取りもどそうと決めた「オスロ合意」とよばれる協定に調印し、当時のイスラエルの首相と歴史的な握手を交わしたことが評価された。
【パレスチナ問題】地中海東岸のパレスチナをめぐる、パレスチナ人とユダヤ人の対立。紀元前1000年ごろ(約3000年前)、このあたりにユダヤ教を信じる人々が国をつくりましが、その後ほろびました。この地をはなれてうつりすんだヨーロッパ各地で長いあいだ差別を受けてきたユダヤ人たちは、パレスチナを「心のふるさと」と考えつづけ、1948年にイスラエルの建国を宣言。パレスチナのアラブ人は土地を追われました。
その後、ともにくらす道をさぐって、イスラエルが占領したヨルダン川西岸などでパレスチナ人の自治をみとめる合意が93年に成立。和平交渉も始まりましたが、治安問題などで行きづまり、パレスチナの過激派のテロとイスラエル軍の攻撃がくり返されています。
パレスチナ自治区は、地中海沿岸のガザ地区と丘陵地帯のヨルダン川西岸からなり、人口はガザ地区が約133万人、西岸が約230万人とされています。 |
ケン 世界中から拍手されたわけだ。
――その当時はね。オスロ合意で、イスラエルが占領した地域の一部でパレスチナ人の自治がみとめられて、アラファトさんは自治政府の初代議長になった。でもその後、イスラエルに新しい政権ができると、ふたたび対立がふかまったんだ。
ジャン せっかく握手したのに。
――イスラエルは2001年にアラファト議長を和平の障害とみなして交渉をやめてしまった。仲介役のアメリカも、02年には議長をやめるようにもとめるなど、批判姿勢を強めたんだ。
ポン アラファト議長が亡くなって、どうなるの?
――いちばんの問題は、しっかりした後継者がいないことだ。パレスチナの中にも、もっと強く抵抗することをもとめる人、和平に前向きな人、といろいろな考えの人たちがいて、アラファト議長というリーダーがいることでまとまっていた。その議長がいなくなって、パレスチナが分裂してしまうかもしれない、といわれている。
ケン そうなの。
――もう「オスロ合意」はくずれてしまって、いまはアメリカなどが提案した「中東和平ロードマップ(行程表)」とよばれる和平案を実現できるかどうかが、カギになっている。議長の死でパレスチナの内部の対立や民衆の不満がふき出せば、和平案の実現はさらにむずかしくなるかもしれないね。
(2004年11月20日)
|